mutoです。
最近、ふと思うのです。
年末年始の大型時代劇、完全に消えましたよね。
10年、15年ほど前までは、
「正月といえば時代劇」が、ほぼ自動的に存在していました。
- 1日数時間
- それを三が日に分けて放送
- 下手をすると、元日ほぼ一日中
今考えると、正直クレイジーです(笑)。
正月のテレビは「家族の公共財」だった
当時の正月の居間を思い出してください。
- テレビの主導権:祖父母
- チャンネル決定権:ほぼ祖父
- 子ども:拒否権なし
私は本当は「バカ殿様」が見たかった。

でも、正月の昼間にそんな主張が通るわけがない。
結果、
時代劇を黙って見る。
これが、あの時代の正月でした。
私も最後まで見た、北大路欣也の「宮本武蔵」
正月時代劇と聞いて、
真っ先に思い出すのがこれです。
北大路欣也が演じていた『宮本武蔵』。

題材として、これ以上わかりやすいものはありません。
- 剣豪
- 宿命のライバル
- 最後は巌流島
子どもでも「ゴール」がはっきり分かる。
だから私は、
眠い目をこすりながら、
祖父と一緒に巌流島の決着まで見切った記憶があります。
これは、作品の完成度というより、
正月の居間に耐えうる分かりやすさが圧倒的だったのだと思います。
ちなみに数年後、
巌流島以降を描いた続編、
いわゆる「それからの武蔵」も放送されました。
……が、これは正直しんどかった(笑)。
そして、もう一本と言えば「大忠臣蔵」
松本幸四郎主演の『大忠臣蔵』。

これも、はっきり覚えています。
細かい配役はもう曖昧です。
でも、吉良上野介が本当に憎たらしかった。
この一点だけは、異様なほど記憶に残っている。
吉良上野介は、ちゃんと「嫌なやつ」だった
- ねちっこい
- 偉そう
- 見ていて腹が立つ
近年よくある
「実は吉良は悪くなかった」
という再解釈は、一切なし。
ベッタベタな悪役。
でも、正月の居間で
子どもから祖父母までが一緒に見る忠臣蔵としては、
あれでよかった。
忠臣蔵という物語は、
吉良がちゃんと嫌なやつに見えなければ、成立しないのです。
12時間ドラマという、今考えると狂気の編成
そして、忘れてはいけないのがこの枠。
12時間ドラマ。
冷静に考えてみてください。
12時間ぶっ続けで、
人間って何かできますか?
私はできません。
たぶん今も、昔も無理です。
小学生時代、あれだけ大好きだった『ドラクエⅣ』ですら、
12時間ぶっ続けで遊べと言われたら、
途中で確実に飽きる自信があります。

できたとすれば、
インフルエンザにかかって、
熱にうなされながら寝続けていた時くらいでしょう。
それくらい、12時間は長い。
それでも、正月には成立していた
なのに、正月には、
- 地上波で
- 時代劇を
- 12時間
何の違和感もなく流していた。
誰も「長すぎる」とは言わない。
誰も「編集しろ」とは言わない。
そもそも、最後まで集中して見る前提ですらない。
- 途中で寝る
- 途中で抜ける
- 起きたらまた流れている
それでいい。
考えてみれば、
コンテンツとしては完全に狂っています(笑)。
でも、だからこそ成立していた
- 正月は店が閉まる
- 娯楽の選択肢が少ない
- 時間が余っていた
- テレビはつけっぱなしで許された
**「集中しなくていい娯楽」**として、
12時間時代劇は、完璧にハマっていました。
今のように、
- タイパ
- 倍速
- スキップ
が前提の時代とは、人間の時間感覚そのものが違っていたのです。
なぜ、あの大型時代劇は消えたのか
理由は単純です。
- 家族同時視聴が崩壊した
- テレビの絶対性がなくなった
- コストとリターンが合わなくなった
そして、もう一つ。
今の役者は、あの「ベタさ」に耐えられないのでは?
正直、こう思ってしまいます。
今の役者は、ああいうベッタベタな時代劇に耐えられる人が、少なくなったのではないかと。
- 大仰な台詞回し
- 様式美としての所作
- 勧善懲悪を、照れずに演じ切る覚悟
少しでも照れたら、成立しない世界です。
現代ドラマで求められる
「自然体」「リアル」「抑制」とは、真逆の能力。
だから今、
あのレベルの忠臣蔵や武蔵を、地上波で成立させるのは、そもそも難しい
そんな気もします。
君は、あの「時間の無駄」を知っているか?
私たちが懐かしんでいるのは、
- 忠臣蔵
- 宮本武蔵
- 時代劇
そのものではありません。
- 正月に
- 家族が同じ部屋にいて
- テレビをつけっぱなしにして
- 時間を無駄にしても許された
あの空気です。
正月に12時間の時代劇を流すなんて、
今考えれば完全に狂気。
でも、
あの狂気を「まあ、正月だしな」で受け止められた余白が、確かにあった。
君は、その時代を知っていますか?
今日のところは、以上!



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